諦観を持って生きる

今のあやふやな状況は自分の選択による結末だから仕方ないし、それで良しとも思っているのであるが、病に襲われ選択の余地のない状況にいる友人は気の毒でならない。何の瑕疵もないのに、本人にしてみれば理不尽この上ないことだと思う。

若くて健康なときはそんなことは全く考えないものだが、歳をとったり病気をしたりすると、ある種の諦観を持って生きることも必要になってくる。諦観を持つといっても、別に消極的に生きるわけではなく、その状況の中でできるだけ楽しくやっていけばいい。ただやれることと、やれないことがハッキリするだけだ。

そこのところを割り切れないと、どうしてこんなことに、なんでオレがと不満がたまる。自分に関しても、今の状況でいいはずがない。本来ならもっと社会で活躍していたかもしれない。しかし、そういうことに囚われていると、毎日が不満の連続になってしまう。

水木しげるも言っているように、「成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。」「他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。」ということが重要なのだと思う。今現在の状況でできる範囲で、自分の好きなことを楽しむ。自分の楽しさを追求することが幸福な状態なので、それは他人の幸福な状態、一般的な幸福の状態と必ずしも一致しない。人それぞれなのだ。

若い時は理想の追求もいいだろうが、あるところまでいけば、諦観を持って生きることも必要だ。不満を持って毎日過ごすよりも、楽しく暮した方がいい。

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