知るというのは果たして良いことか

以前高級なオーディオに熱中していたことがあるので、一般的な価格のオーディオとは音のクオリティがまったく違うというのは知っている。安いオーディオはピラッピラの薄い音だけど、高級なオーディオは立体感があり、密度も高く生々しいのである。自転車と高級な自動車くらい違う。まるで別物なのである。

食べ物や料理にしても、同じ品目でも安いものと高級なものとでは、全然別物なのに違いない。数百円のマンゴーもあれば数万円のマンゴーもある。千円のステーキもあれば5万や10万円のステーキもある。名称が同じだけで、もはや別の食べ物と言っても過言ではないかもしれない。

しかしクオリティの違いは実際に体験してみないとわからない。千円のステーキは食べたことがあるけど、10万円のステーキは食べたことがないから、どれほど違うのか本当のところはわからない。ただ他の経験から、まるで違うのだろうという見当をつけるだけだ。

クオリティの高いものは実際良いものなのだけど、それを知るのは果たして幸せかどうか。高いクオリティを知ってしまうと、低いクオリティでは満足し難いからだ。知らぬが仏、ということもある。高いクオリティをずっと維持できるのならいいけど、それができないとつらいものがあるかもしれない。それはそれと割り切れるなら問題ないのだろうけど。

またクオリティを追求していくとキリがないものだ。際限なく時間とお金を費やすことになりかねない。より早く、より高く、より遠くへというアスリートと同じで、永遠のチャレンジに取り憑かれてしまう。アスリートは早晩体力の限界が来るが、趣味などの場合はお金が続く限りいつまでもということになる。

永遠に追いかけてそれを充実と感じるか、それとも知らないことが幸せなのか。後者は意外と安楽な人生なのかもしれないなと、ときどき思ったりする。

 

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